演志の現代仏教演義

日々の生活と仏教を考える私の一人雑談。

苦の考察;仕事をやめた。

 今日またゴーダマさんに会った。たまに行くスターバックスだった。スマホを見ていると横の席に人が座った。ゴーダマさんだった。


演志 「ゴーダマさん!」
ゴー 「しっ、静かにせよ。」
ゴー 「演志よ。お前は、たしか仕事をやめたのが悩みと言っておったな。」


演志 「ええ、そのとおりです。」
ゴー 「何故か。理由はお前が一番よく知っておろう。」
演志 「そうです。辞めたのは私ですから。でも、何で辞めたんだろうと思います。」
ゴー 「辞めた事実はよくわかっているが、腑に落ちてないということか。」
演志 「そうだろうと思います。」


ゴー 「苦の考察は、様々である。苦は私の教えの出発点であり、到達点である。」
ゴー 「今日は一つだけ教えてやろう。」
ゴー 「お前は仕事について28年、何を考えていた。」
演志 「何をと言いますと、ただ、ただ一生懸命仕事をしてまいりました。」
ゴー 「何のためにだ。」
演志 「何のためにといわれても、ただひたすらやってきたように思います。」
ゴー 「表面上は間違いないようだ。しかし、そのつらの皮の下を見てみよ。」


ゴー 「わからないようだな、お前は。余が教えてやろう。」
ゴー 「余の神通の力で、過去のお前の心をお前に直接見せてせてやろう。」


演志 「(過去にフォーカス。)うわ〜やめてくれ。」
ゴー 「わかったか。演志」


ゴー 「お前は仕事をむさぼったのだ。」「お前は他人をむさぼったのだ。」
ゴー 「己が仕事をしたことに酔いしれ、仕事の成功を己の成功としてむさぼった。」
ゴー 「皆とわかつべき仕事の静かな楽しみを、お前は一人でむさぼったのだ。」


ゴー 「もっとくれ、もっとくれと貪ったのだ。」
ゴー 「そのような心は、満たされない。」
ゴー 「そして、思いの通りにいかない苦痛を、他人になすりつけていたのだ。」

ゴー 「心は見えない。しかし、心は心のことを形に表していく。お前のそのむさぼりの心が、お前の口から「仕事を辞めさせて下さい。」と言わせたのだ。仕事でも、職場でも、人事異動でも、人間関係でもない。言わせたのは、ほかでもないお前の貪りのやまない愚かさなのだ。」


ゴー 「その様なむさぼりは、心のなかにちりが降り積もるようにたまっていく。静かに知らぬ間に溜まっていく、拭き取ることもできない。それを「業(カルマ)」というのだ。己の心の行為が己の心の中に力を溜めていくのだ。それが、自分の行動を作っていくのだ。余が心を整えよというのは、これ故なのだ。畏れよ。」


ゴー 「今、結果を嘆いても、意味のないことに気づいたであろう。」
ゴー 「今のお前は、過去のお前なのだ。そして、未来のお前なのだ。」
ゴー 「正しい過去の念を受け取り、正しい念を未来に発し、未来の正しい念を受けとめよ。」


ゴー 「人は他人の業さえも引き受けなければならない。己の業のとおり己が動いていくのは、自然の道理であろう。その道理を真に理解せよ。真の理解があるならば、業に光がし込むであろう。己の業を引き受ける覚悟せよ。そこから新しい業が始まる。」


ゴー 「では、余にはビジネスがあるので帰る。」
ゴー 「ばあちゃんにいわれたやろ。自業自得って。」


 自業自得って・・そうだけど・・。平生業成ってか・・恐ろしい言葉だなあ。当たり前のことが気づかないほど、ゆがんでいたんだな。何かしらほっとしたけど寂しい。
 
「まっ、そういうことか。」


 もう一杯、ホットミルクを飲んで家に帰った。
 ゴーダマさんありがとう。今日のゴーダマさんは迫力だった。


ゴーダマさんの示現

 昨日の夜、寝つきが悪かった。明け方だろう。夢を見た。
 東京出張の帰りの新幹線で「うとうと」している夢だ。隣の席には紺の背広を着たインド人らしき細身の人が座っていた。その人が「ボソッと」語りかけた。


彼  「演志よ。お前は何を悩んでいる。」
演志 「(ん?)あなたは誰ですか?」


彼  「余はゴーダマ・シッダールタである。」
演志 「えっ・・ゴーダマ・シッダールタ!!お釈迦様ではございませんか。」


ゴー 「えらく態度を変えたな演志。なぜ余が釈迦とわかったか。」
演志 「えっ・・それはゴーダマ・シッダールタと名のられたから。」


ゴー 「お前は名があれば、余を仏教の開祖、ゴーダマ・シッダールタ、釈迦と思うのか。ゴーダマ・シッダールタは、2500年前に北インド・コーサラ国の王子に生まれ、30才で出家、35才で悟りを得て説法の旅をして、80才で入滅した。死んでいる。それくらいはお前も知っておろう。中村元博士は、ゴーダマ・シッダールタの生存はBC463〜383と言っておるではないか。」


演志 「(?)では、あなたは誰ですか?」


ゴー 「余はゴーダマ・シッダールタである。」
演志 「ええっ。」


ゴー 「名にとらわれ、言葉に支配され、背中に煩悩の火が燃えさかっているお前には、余が何者であるかわからない。お前の眼が澄み、背中の煩悩の火が消えたとき、余がわかるであろう。で、お前の悩みは何だ。」


演志 「仕事がいやで、仕事をやめてしまいました。」
ゴー 「そうか。で、お前の悩みは何だ。」


演志 「えっ、だから、仕事をやめて・・。」
ゴー 「おっ、もう名古屋だ。余はビジネスに行く。また会うこともあろう。」
演志 「ゴーダマさん・・。」


 ゴーダマさんはスッと立ち上がり半眼の視線を私に向けた。ほんの微かな笑みを漂わせ通路に出て行った。ゴーダマさん、紺のストライプの背広はバブルだよと思ったところで目が覚めた。いつもと同じ朝だった。


宗教ってなんだろう。

 ある親戚の葬儀で、亡くなった方の兄弟が遠くから駆けつけて「俺は宗教はわからんから。」と一言。葬儀のことがよくわからないという意味の一言だったと思う。あれれ、今、それを言っていいの・・という違和感と同時に今時それもあり得るなあと思った。


 宗教ってなんなんだろう?。宗教学の本にはいっぱい定義が書いてあって、全然わからない。なので私が思う宗教を書いてみる。人は誰でも認知や信念の体系をもって生きている。その認知や信念の体系が現実世界を含んで現実世界を越えた世界に広がっているものが宗教でなかろうかと。何と、たった2行。宗教学の先生ごめんなさい。こんなんでいいわけがないが私が思うのはこの程度。
 
 しかし、宗教の役割については、もうちょっとだけわかるような気がする。人生には苦が多い。苦を克服するには自分の人生を相対化して見る視点が有効であるからではないか。その視点が宗教だろうと思う。


 苦に直面し人生を見直さなければならなくなったとき、視点がとんでもなく現実を越えた無限大∞に置かれるとしたら、人生の意味は一変してしまうだろう。無限大∞に向けて試行錯誤して補助線を引いていくのか、ある日突然、視点が降ってくるのかはわからない。本当に宗教って何なんだろう?。広大な星空を見上げているような気持ちになる。